昭和52年12月30日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
天地自然の道理なんです、道理に合う信心というのは、成程最もだと成程最もだと、その最もだというのと、自然の道理というのは違うのです。最もだというのは人間が言う道理です。ああ道理じゃ最もじゃと言う風に申します。だから人間が言う道理じゃない、言うなら自然の道理です。自然の天地自然の道理に合った信心をせなければならんというのです。それにはどうしても、やはり天地の心というかね、まあお道流にいうなら、天地金乃神様の心が分らなければならんと言う事になります
。天地の親神様の心が、段々深くしかも広く分らなきゃならない。昨日は毎月熊本の日奈久教会の富永先生が、御信者さんと二人で月の御礼に出てみえる日なんです。いつもだから丁度敬親会が合楽であっとりますから、敬親会にも参加して、そしてまあゆっくりして帰られます。敬親会が済んでから、お食事を茶の間で一緒に頂いて、先日直方の安藤さんから聞いておったけども、知らなかったんですけれども、先日あちらの霊祭がございまして、若先生が参っとります、他の先生方何人かと。
それでその御礼に出てみえたときに、若先生にも何かと言うて、あのまあお能の先生から頂かれた素晴らしい能面が部屋に掛けられておる、それを「もう家に置いとってももったいないから、若先生にこれを御礼に差し上げたい」と言うて、それを外そうとされたけれども、どうしても外れなかった。それで「なら小母しゃん、又またで今日行く事はいらん、またでいいでとや」というて、まあ帰ってきたというわけなんです。
そうして先日からそれを、まあ無理してこう外されて、それで若先生の部屋に取れたからというて持っていかれて、見事な能面なんです。それで若先生が喜んですぐ自分の部屋にそれを付けようとした途端に取り落としてから割ったと、こう言うのです。「小母しゃま、どうも済みません。あなたの真心をもう早速自分の部屋で見ろうと思って掛けさせていただきよったら、もう途端に割ってしもうた」と言う事をあの安藤さんから聞いとりました。若先生から聞きませんです。
こんなもうこんな風でと言う事でした。それで昨日茶の間に行ったら、私のあの茶の間に持ってきとりますもん。だから「惜しいことした。ほんと立派な面を、まあ割ってしもうて」それで、まあ、私、思うたんですけどもね。これが安藤さんが、親先生の部屋にでも掛けて頂こうというのだったらすぐ外れとったかもしれんし、勿論来たからというて、あの割れもしなかっただろうばってんねというて言うた事でした。
そして私がそのまあ話を継いだ訳ですけれども、丁度皆さんも御承知でしょうが、茶の間には真っ四角い紫檀の机が置いてあるんです。あれと同じようなものを、その買いたいと思うてあっちこっちで見られるけどもなかなかあの四角いのがない。私もこれが本当に欲しいですけども、とこういうわけなんです。それでまあ私は暗にその能面のことから話したことですけれどもね、紫檀じゃなくても何か、まあ張りもんなんかは嫌いだとか、だからほんなものでも、まあ外に紫檀ではなくても。
欅(けやき)とか、まあ楠(くす)とか色々ありますよね。けれども先生はやはりその紫檀のそれが欲しいとこう。けれどもなかなかない。ところがもう今どき買うなら、これはもう随分するでしょう。やはりやっぱり随分することでしょう。何十万かするでしょう。それでまぁあなたにはちっと良すぎるよと(笑)いう意味を含めて、実は言うたんです。例えば安藤さんが若先生にお供えをされたその能面がね。
例えば壁からどうしても外れない、時に「そりゃ小母しゃま、私にはちがわん良すぎるとですよ」と「私には勿体ないとですよ」と「だからもうどうぞ外さんで下さい」と、言っておれば立派なこっちゃったと思うんですね。例えば調度品一つでも、なら置物一つでも、やはり分に、部屋に応じた、または分に応じたもんでなからなきゃあいけんです。提灯に吊り鐘。釣り合わないという様なことをするから、釣り合わないことになって、いうならば若先生には、その能面は釣り合わなかったからこそ割れたんです。
それでこれが例えば自分が頂いても、これは自分には勿体ないから、親先生がこんなもんが好きだから、親先生にでも見せて、親先生が要ると言いなさるなら、親先生にでも、部屋にでも掛けてもらおうかと、若先生が言うておったら割れはしなかっただろうと思う。自然はね絶えず私どもにね、道理に合うた行き方をさせようという働きが、もうそこにすでにあっておるわけ。もう壁から外れなっかたときに、ピーンと実をいうたら勘が働かにゃあいけん。
万物の霊長であるから万物を見て、道理に合う信心。ところが霊長としての、いうなら人間だから誰しも霊長の値打ちを発揮できると言う事じゃない。霊長の値打ちのあるものを持っておるけれども、それが垢にまみれておる、それが我情に我欲にまみれておるから、霊長としての値打ちを発揮することができんのです。冷血動物のいうなら蛇とか蛙と言った様な動物、小動物ですら、いわゆる降る照るのことすら分かるという。敏感なんですね。もうこれは雨が降る大水が入る、それが分かるんです。
だから蛇が高上がりをするときには、これは高水が入るばいな、と言う風に言うでしょう、もう知っているわけです。もう火事があるといってん時には、もう鼠なんか一匹もおらんことなるということですね。もう勘が働くわけなんです。ですからまして人間万物の霊長と言われるのですから、その霊長としての勘がピンと働くように私共の心というものがいつも清められ、研ぎ澄まされていくと言う事が信心なんです。
安藤さんが若先生に御礼のしるしにと言うて、まあ自分が大事にしておられるのを、家には勿体ないからというて、外してあげようとなさったけれども、どうしても壁から外れなかった。その時に若先生がピンときとったら、「小母しゃま、それは私には勿体ないとですばい。それはあの頂くわけにはいきません」と言う様にですね、ピンとくればいい。私はね普通成程だもっともだと、人間がよく言いますよね。
例えばお芝居なんかでよく、嘆き悲しんでおる時に、それを第三者が見て「成程もっともだもっともだ」と言う風に申します。だからそれとは違うと言うんです。どこまでも天地自然の道理に合うたもっというなら声を聞き取りきらん。皆さんが例えば花を一枝、はあ立派な花が咲いとるけん切ろう、または折ろうと思って野原なんかで、こう折られることがあるでしょう。その時にポキポキ折れる時には頂いてよい時です。けれども折ったけれども、皮がこうついてきてから外れん時があるでしょうが。
そげん時にはあこれは自然が取ってはならんと言いよる時だなというようにです、やはり勘を働かせにゃいかんです。でないと天地に対する御無礼になる。一時が万事にそうです。だからそういう、いうなら信心によって自分の勘が強うなるというか、おかげを頂いて参りますと、一時が万事におかげが頂けれる。自分がフッと思うたことがそのまま神様が思いなさった事と言う様な働きを感ずるようになるです。
だから万物の霊長だから万物を見て道理に合う信心をせよと言う事は、道理に合う信心をさしてもらうと言う事は、いうなら本気で本心の玉を研けよ、ためには改まれよと、泥にまみれておったんでは、光を放つ事は出来ない。それを例えば改まるという、垢を落とすと言う事を改まる。そしてそれに研きをかける。それを本心の玉を研くと言う事。そういう信心をさせて頂いておると、本来神様から頂いておる神の守護と、いわゆるね、霊長としての値打ちをいろいろな意味に発揮することが出来る。
昨日私はここで、或ることをいろいろ思わせていただいて、ほんとに私はもう、こう考えてみると、昔からいつも貧乏籤を引いておるなとこう思うんです。何かいつも縁の下の力持ちのような、まあおかげで縁の下の力持ち、表面には出ないけれども、縁の下の力持ちをさせて頂いているおかげで、まあ段々力も頂いてきた訳だけれども、まあとにかく、いつも分の悪い立場に立って、いうならば人から食わん腹を探られるといったような、一方では、合楽じゃなからにゃならんと言う人達があるかと思うと、一方ではもう合楽はもう大悪人のように言う。
もう合楽教会なんか、潰してしまえと言う様な、雰囲気すら感ずることがある。それも誤解であり、いわばそうしたその誤解が相手、にそういうふうに腹を立てさしたりしとるようなわけである。そして私ほんとに自分でいつも、貧乏籤ばっかり引いて分の悪いところにおるなと思うたら、神様からね、あの『貧乏籤は宝籤』と頂いたです。ま、私頂いた途端にですね、なるほど私の生涯はおそらくね、こういう貧乏籤を、引き続けることだろうと思います。
昨日そう言う様な事がございましたから、ずううっとここでそんなことを思っていたんですが、はぁほんに今朝の御祈念の時に、あげなことを頂いておったたいと思ってから、思い出しことです。というのはあの朝の、昨日の朝の御祈念の時に、二三日前あのチャーリー・チャップリン何とか、チャップリンですね、チャップリンが亡くなられましたですね。そん時私はテレビをちょうど見ておりましたが、あの人は大体あのヨーロッパのほうの方ですね。
スイスかどっかの方それがあちらへ出てきて、大変やっぱり苦労をした一旅芸人の子供に生まれて十(とお)までぐらいは、何かなんていうんですかね、あの黒ん坊を扱うところがありますね、ああいうとこまあそういう施設で育った人である。ところがこの人の演技というのは、もういうならあのチャップリンスタイルで、もう初めから最後まで通しておられるということ。
山高帽にだぶだぶの洋服を着て、だぶだぶのズボンを持って、そしてあのこう曲がるようなステッキを持って、破れた靴を履いてこれがもうチャップリンスタイルです。帽子とあのステッキをあの書いた、あの手紙がチャップリンのところへ、どこから出しても行くそうです。というふうにまあ有名だったわけですね。そして自分の信念を曲げないという人であった。
例えばあの映画一つ作るにも、ただ面白う、その笑いあり涙ありという、ふつう喜劇俳優がそれですけども、その笑いとか涙だけではなくて、もう一つ何かがあった。訴え世の中に訴えるというか、いうならそういう、その内容のもの、自分で自作自演ですかね、いつも自分が主演をして、自分が監督をして、もうやるんだそうです。そしてそれで何かこう思想的にアメリカでちょっと引っ掛る様なものを作ったんですよね。
何か共産主義的なものか何かがあった何かで、片一方は主義が違いますから、結局そのアメリカの国を追われて、そして自分の故国に大分長い間帰らなければならないと言う様な羽目になった。それでも自分の主義主張というものは曲げなかった。ところがですいうならば、その芸の偉大さというかその作風というものが素晴らしいというので、また改めてアメリカに招聘されたわけです。
追われた人がまたアメリカに帰ったわけです。その時には、アメリカ国がどういうふうにして、ま優待したかというとね、何か大変値打ちのある勲章のようなものを、普通は一つしかやらんとをあの人には二つあげたと言う事ですね。その話を私聞いとり『その時のチャップリンのスタイル』を昨日朝の御祈念のときに頂いておりましたんです。その時の私が、ほんとに私はいつも貧乏籤ばかり引いて馬鹿らしいところにおるなと言う風に、その思うたけれども、神様が『貧乏籤は宝籤じ』と頂いてですね。
例えば、チャップリンがあの自分の信念を曲げずにやっておったと言う事が、そのアメリカを追われることになったけれども、次にはいうならば、また招聘されてしかもアメリカの国が、何か値打ちのある勲章を一つしか普通下げないのに、二つもあげたと言う様なね、私の場合でも、もし私がいうならば亡くなった後にです、やっぱり合楽の大坪が言いよったのがほんなこっだと言うて、いうなら本部なら本部ででも取り上げられるような時代が必ず来るのだろうというふうに、私は昨日思うたです。
今はあれは金光教じゃない、あれは合楽教だと、とまあ決めつけて言う人達もある。けれども私は、これが金光教の信心の、いわば真を行くものだ。でなからねば、ほんとの金光教的助かりにならないんだという、いうなら真を曲げずに、こう行きます。だからそのチャップリンじゃないけれども、評判が悪いとか、いうならば悪名が高いというのは、ちょうどアメリカから追い立てを食っておるようなところではなかろうか。
あげな教会は潰してしまえと言った様な雰囲気すらあると言う事は、そういうチャップリンが追われた時分のことでは、様子のことではなかろうか。ははあ今日はこう言う事があるから、神様が、朝、あんなお知らせを下さっておったんだなあと思うてくるんです。めのめぎざんに、貧乏籤がそのまますぐ宝籤になると言う事ではありません。それをいわゆる時節を待たせて頂いておるうちにです。
だからこれは同じ道理というてもね、超常識と言った様な事を申しますが、超道いうならばほんとに神様の心が分からなければ、人間からは愛されなくても神様から愛される道が合楽の道だ。人間から悪う言われても、笑われても、神様から笑われてはならぬという、これは私の主義なんです。人がどんなに悪う言おうが笑おうが、この主義を曲げるわけにはいかん。神様から笑われちゃならん。人間が笑うなら笑えという行き方。これは私は超道理だと思うんです。
そう思うてくるとです、ほんとに私はいうならば、神様からは人間からは粗末にされたり、まあ何かいうならばなんていうかね、悪い人間だとかま、汚いやつだとかというふうに見られてもです、神様から褒められたり、神様から讃えられたりすると言う事のほうが有り難いんだ。私は今の金光様からお書き下げを頂いたり、いろんなものを書いてもらったことはない。ところが合楽には、部屋部屋に金光様の書かれた軸とか額とかが掛かっておるという事実なんです。
人間金光様からは頂かないけれども、天地の親神様がどこからともなしに集めて下さるという、これが一時が万事にそういう事実をね、思うときに、私は神様に愛されておるなとしか思われんのです。なるほどこれがほんとの宝籤だな、貧乏籤を引いてああ無念残念と言うのじゃなくてです。それを人から笑われても、無念残念と言うのでも、それを信心辛抱させて頂いて、おかげを頂いておると、神様のほうが、いうなら可愛がって下さると言う事になる。
昨日ちょうど、敬親会のあの終わりました時に、そこの中村スギさんも一緒に参加してございました。合楽会の会長さんです。「先生にほんとにあのお詫びをせんなんことがございます。でも今日は何ですから、またお詫びに上がる。」「いやぁそのねーごつの何のそげなお詫びせんならんの」というて言いてからまた、私とこみえてから、「実は今度の報徳祭のことでございます。今度の報徳祭に、いつも合楽からお米を一俵ずつお供えさしてもらいよって、自分がずうっとそのぬきに回る。
これは出し渋るようなところもあるばってん、もう現に合楽がここに教会がでけて、合楽の人達が、例え一升づつでん二升づつでんお米をお供えされると、合楽地区だけがコロッとようでけとるという事実があるんです」という。「作物がようでける。だからこりゃもう、人からあんまり好かれんことしょうりゃせんな、もうほんとに喜んでお供えする人だけのことにしょうかと思いますけども。
実際おかげを頂くのですから、おかげを頂かせるためにでん、やはりあのぬいでまわって、そのお供えのお米せにゃいかんというふうに思うておりました。ところが中にもうえらぁい、それこそその村内のある方が悪く言われた方があった、合楽教会のことを。だからもう今日は、皆からあげん悪く今度たびは、悪く汚く言われるなら、もう今度はやめとこうと思うて、それができませんでしたことをね。
先生お詫びせにゃその相済まんことでしたから、今度からはまた悪う汚のう言われても、問題はその人が助かることだから、さして頂きます」と言う様な「意味のお届けがあったんです。まあ例えていうなら、私がそんなら、ほんのここは地元、合楽と言う所は、合楽の地元の方達がまずは助かってもらわんならんと思うて、まあいうなら合楽の皆さんのことを私が祈る、祈っておるといたしますか。もうそげな悪口言いござったならば、それを悪口を言う人の上にでも祈りをおくらにゃおられんのですね。
けれども、やはり地元におる人の合楽の人達でもね、中には有り難いという人もある。金光様がこちらにみえたおかげでと言う人もあるけれども、もうほんとになんか合楽の邪魔者のように言う人達もいくらもあると言う事なんです。だからこういう例えば尊い神様、こういう力のある神様だから、一遍にです、スパッとわからせなさることができんじゃろうかという、そんなことをよく言いますよね。
何か〈めのめのざんに〉分からせてもらうような手だてはないだろうか、悪口でん言いよるやつをいっぺんに罰かぶらせるごたる方法はないだろうかと(笑)。まあそうじゃないけれども、その悪口を言うておる人達のことをという、だから私もちょっと心に、まそんなものを感じたんです。そしたら今日の御理解じゃなかけれども、『時節を待て』と神様が言うて下さる。ちょうど御心眼に『この荒木又右衛門が、あれは三十六人斬りですかね、伊賀越で、あの仇討ちをするですね。
あの荒木又右衛門のそん時のいでたち』の御心眼をいただきました。こう襷をかけて、鉢巻きをして、ここに手裏剣をいっぱい頭に挿してね。一富士、二鷹、三ナスビというてね、お夢を頂いた時にはもう、富士山の夢とかあの鷹の夢とか、ナスビの夢がもう最高だと言われておる。それはどう言う事かというと、それぞれが、あの本懐を遂げたと言う事から出たんだそうですね。富士というのは、あの曾我兄弟が富士の裾野でね、本懐を遂げたという。それから鷹の羽というのは、浅野内匠頭の紋所ですかね、いわゆる忠臣蔵です、が、あの鷹の羽、いわゆる本懐を遂げたわけです。
そうすると荒木又右衛門が、何十人斬りを弟の数馬(かずま)の助太刀をしてね、本懐を遂げたのが伊賀越と言う所であったわけです。伊賀越道中なんかというのがありましょう、お芝居が。あの伊賀越です。伊賀を越えると書いてある。ですから日本の三大敵討ちのことだそうです。富士、一富士、二鷹、三ナスビ。私はそのことをすぐ思たんです。ね、荒木又右衛門が、いうなら本懐を遂げた。それは伊賀を越えて後に成就したんだ、成ったんだ、本懐を遂げたんだと言う事なんです。
いろんなそう言う風な村内の事でも、聞いてからですね、そんなに村内の人達から、そんなに悪ゆわれたり、そのまあいうならモヤモヤする様な事を言われる様な事はいっちょんしてもおらんと思うけれども、どこが気に入らんなら、そういうこちらがイガイガするような、ジガジガする様な事が、起こってくるだろうかと思うけれども、一つの事例えばこういう力のある神様だから、一遍に分からせる力も持っておんなさろうけれども、そんな私共にイガイガを越えさせて、いうならばジガジガを越えさせて、いうならば難儀を難儀ともせずに難儀を越えさせた向こうに、成就のおかげがある。
本懐のおかげがある。そこに私共を神様が育てねば止まぬとうい働きが、そこに感じられるのです。イライラしたり、ジガジガする時ほど、いよいよ本心の玉を研かにゃならん、改まらにゃならん。これでよいということは決してありません。もっともっとこちらがより美しい心で、なら村内なら村内のことでも、祈れれるおかげをいただいて、ほんとに村内の全部の人から、合楽に金光様がみえて、みえたおかげで。
私共もこういう潤うたおかげになってきたと喜ばれるようなおかげを頂く為には、村内の方達じゃない、私自身がもっともっと、イガイガもあろうけれども、それを越えたところに本懐のおかげが受けられると言う事なんです。昨日、中村さんのそういうお詫びのお届けがあった時にです、もうそげん不浄のかかるごたあることはいかんからやめといて下さい。喜んでお供えしなさるとこだけにして下さい、と言うたほうがです、いうならば金光教的であるようにあるけれども。
中村さんが言われるように、実はそげんしてでもお供えを私がぬいてまわると、その人達も助かることができるし、おかげを頂かれるという事実を十年間の間に体験させていただいておるから、やっぱりこの次からそうさせて頂くと言う様な、お届けを昨日なされました。ほんとの意味で助かると言う事のためには、だからそれを敢えて、そこを辛抱し抜かなければいけないと言う事になる。
教団対合楽と言った様な場合でもそうである。〈めのめきざんに〉例えば言うて聞かせてね、いうならその事実をあるかないか、合楽にもぜひ来てみれ、そして合楽でみんなが助かっておる、助かっておる様子を見てみれ。ただそんなら、何が何やら分からんようなことで助かっておるのじゃない、そこには助かりの理念に基づいて合楽の信者は助かっているんだ。と、例えば言うて聞かせてそうしたら、胸もすっきりするかもしれん、また相手に分からせる事が出来るかもしれん。
けれどもそれではない。いわゆる自然の時期を待つ。ほんとの本懐が遂げられる時期を待たせてもらう。そしてそういうジガジガするようなことを感じた、いわゆるそういう貧乏籤を引かなければならない時にはです、なぜ自分がそういう貧乏籤を引かなければならないかと自分というものを見極めてゆくと、なるほど貧乏籤を引かんならん元はこちらにあるということ。
言葉を変えると、よりもっともっと神様が高めさせてもしよう、研かせもしよう、改まりもさせもしようという働きがあることが分かるから、そういう働きになってくる。そういうおかげを頂くから、それが貧乏籤じゃなかった宝籤だったと言う様なおかげになってくるわけです。そこの生き方、その在り方のなかにです、人からどんなに、例えばよし悪口を言われても、神様から悪口を言われる様な事があっちゃならん。
人から笑われても、神様から笑われる様な事があってはならんという生き方、この信条を崩さないかぎり、私が生涯いうなら私が死ぬるまでね、合楽をようゆうたり悪う言うたりといったようなことは尽きぬかもしれません。けれどもねいうなら例えば私が死んだ先にです、やっぱり合楽がゆうておったのが本当だったと分かる時に、それこそチャップリンじゃないけれども、改めて大坪が言いよったのがほんなこつじゃったというて、いわばご褒美の普通は貰わん、貰えんようなご褒美も下さることができる。
いやそう言う事になるかもしれん。いやなるそりゃあんた、折角貰うなら生きとるうちに貰わにゃ。そげなことない、信心とは魂の世界を信じなかったら信心がない。魂の世界でいわば頂いても、今頂いてもおんなしことだ。あの世から、はあ皆が分かったばいのと思うて喜べれる時期が必ず来るだろうと。というくらいに私は、いうならば初心をいうならば貫く、いうならば神様に愛される生き方だけを進めていくと。いうならば、いよいよ万物の霊長としての値打ちいよいよ作らせて頂く事の為に。
ジガジガもありゃあ、悪口もあると言う事をね、確信させて頂いていよいよ信心を進めて行かなければならないと言う事でございます。ためには今日は先ずは自分を知れ、自分の値打ちを知れ値打ちのない自分がね、値打ちに過ぎたようなものを身につけようとしたり、それを求めようとしたりする所にですね、例えばそれをあの若先生の能面の例をもって聞いて頂いた訳です。時節を待つ。こんな素晴らしい生き方はないです。今いうならば赤面弁慶になって言い訳しなくっても、神様が分からして下さる。
その分からして下さるその間を、いうならば大事にしてゆくという生き方。そこにはいうならば、ほんとに私はいつも分の悪いところに、いつも貧乏籤を引いとると思いよったけれども、その貧乏籤こそ宝籤であったと、いや貧乏籤と思うような貧乏籤を引かなければほんとの宝籤には当たらんと言う事を、ひとつ分かって頂くというか、それを信念させて頂くと言う事で辛抱のでけないところでも、辛抱がでけると言う事になるのじゃないでしょうかね、
どうぞ。